圧巻だけでは終わらない驚異の鉛筆画

昨今何かと取り上げられている絵画の中でより鮮明繊細にしてみれば緻密に描かれたものがあります。
細密鉛筆画と言われる分野の絵画です。
その昔、鉛筆による絵はデッサンの下書きとするばかりで、それがメインであるというものはすくなかった。
地図や挿し絵としては取り上げられる事はあっても、あくまでラフなものであったのです。
理由は二点。
鉛筆のもつ性質、鉛の寿命が短くせっかく描いても薄くなっていく宿命があるからです。
もう一つは紙質の問題。
鉛筆の黒い粒子はミクロの繊維の上に載った状態になります。
あくまでも載るという状態故に画用紙のような荒い繊維ではきちんとした線は描けません。
一見すればまっすぐに見えても実際にはジグザグになってしまい、仕上がりが雑に見えてくるわけです。
ちょうど写真でいえばフォットマットか絹目調か光沢紙といった差があるのと同じです。
表現の行き着く先を考えたときかつての紙レベルでは細密には至りませんでした。
しかし、プリンターの目覚ましい普及から上質の紙の進化を余儀なくされたおかげで、鉛筆による質感表現まで多様になりました。
ケント紙の登場です。
漫画の世界では当たり前であったこのサインペンや万年筆に程よく反発する材質がより高度になりタッチがなめらかになりました。
同時に鉛筆の鉛の塗布もただ載るというよりこすりつけられるという具合が奇跡を導いたのです。
デッサンで鉛筆の芯を長くするのは、何度も何度も筆を揺らし行き交わせる事をしないと紙に鉛がついて行かないからです。
芯の消費量が多いのは紙自体も表面がザラザラということも勿論あります。
しかし、紙がよくなり、鉛筆も様々な種類を使いこなすようになったおかげで、今まで下書きで描いていた人が、対象物その物を正確に描写するようになりました。
最初は水墨画のような写実がより鮮明なモノトーンの絵画のように変わり、やがては水や雪、人物の肌の色から木の質感、動物の毛並みに至るまでありとあらゆる目に映るもの全ての正確な描写にまで技術があがってきました。
細密とよばれる所以は、解像度、つまり画素数が昔のピッチ携帯の画面から今のスマホぐらいの違いをうんだことに似ています。
更にいえばテレビ画面と同じくらいまるで目の前にあるかのような鮮明さを生んでいるのです。
代表的な画家は山口県の吉村芳生氏がいます。彼の作品は新聞紙の中に自身の顔を描いているものがありますが、その新聞紙自体も実は描写されているというものなのです。
兵庫県の坂本七海男氏。彼の作品は生き生きした画風で鉄道や馬、さらには人物まで手がけています。とくに、鉛の特徴を最大限に活かすためにわざわざ、日にちを置いて色の定着をはかったりしています。彼曰く、鉛筆自体に色んな色が出せるそうなのです。
馬の絵や高倉健などの皮膚の色は確かによく見る鉛筆の色合いとはことなってさえみえます。
それから、岩手県で飲食店を営む傍らに作品を作り続けている画家もいます。米田康一氏です。
彼の各風景はそのどれもが静かにそして、情緒豊かに描かれているものばかりです。水や雪の質感表現は圧巻です。
そして、今まさに限界を超えているとさえ言われている富山県の画家、古谷振一氏。
彼の描く人物像は写真そのものです。そして驚くべきことが、わずか11時間で描き上げてしまうことも出来るほどの能力をもっています。
速さが雑になるという本来の鉛筆画とは逆行している彼の技術力の凄さは、機械設計を職種にするが故の宿命といえるのでしょう。
きめ細かなミリを超えた設計図面を日々の仕事にするからこそ、妥協を許さない肖像の描写、正確さの追求が不可能を可能にさせているとさえ言えます。
この様に未だかつて無いほどデッサンの進化を遂げている鉛筆画。
その最大の魅力は、一つの子供でさえ持っている鉛筆だけで表現しようとする意気込みで本物そっくりに描き上げていくことにほかならないのです。
デジタルと言われる中で、究極のアナログがその領域の可能性を見いだすとき、人は感動せずにはいられないのです。